菊寿堂義信翁の生きた時代(天保年間~明治36年)

純血種のおおさからんちゅう3

大阪らんちゅうの大家(たいか)である久保利伊右衛門(くぼりきゅうえもん)の時代は大阪らんちゅうが一番盛り上がった時代でもあります

久保利伊右衛門は現在も続く大阪の老舗菓子屋さんです

久保利伊右衛門はどのような大阪らんちゅうを好み発展させていったのでしょうか

菊寿堂義信翁の大阪らんちゅう全盛期(天保年間~明治36年)

久保利伊右衛門又の又の名を菊寿堂義信翁(きくじゅどうよしのぶおきな)(1816年~1904年)です

天保年間から明治時代にかけて大阪らんちゅうの一時代(いちじだい)をきづきあげました

模様魚とも言われえいる大阪らんちゅうには24の模様(班名はんめい)が残っています

大阪らんちゅうの理想とも言える24の班名を作ったのが、菊寿堂義信翁になります

大阪らんちゅうの模様が関西の地名や当時、中国の影響を大きく受けていた関西地方では中国を由来とした名前も使われています

実際に24の班名の金魚を再現できたかどうかは疑問ですが、おそらく菊寿堂義信翁は鹿ノ子以外の模様は再現していたと管理人は考えます

鹿ノ子模様については遺伝的要素がないと作れないという模様になりますので、再現は非常に困難だと考えるからです

菊寿堂は代々、菊の名人の一族で菊寿堂義信の時代に大阪らんちゅうの飼育をはじめました

菊寿堂義信翁が大阪らんちゅうを飼育する前からも大阪の船場、難波倉庫、神戸、京都、淡路で大阪らんちゅうの小さな品評会はあったと考えられます

菊寿堂義信翁が24才の時に大阪と大和郡山を行き来して、金魚の飼育を始めました

青木氏、大工の黒川氏、数名の大阪らんちゅうの名人と知り合いになり、金子(きんす金貨)5両現代のお金で65万円支払い大阪らんちゅうの調色(ちょうしょく)を習いました

この数名で大阪らんちゅうの品評会は盛り上がりました

1854年(安政1年)に大阪らんちゅうの品評会が大阪難波で大々的に行われました

大阪難波の品評会では菊寿堂義信翁が審査員をしていました

現在においても数多くの資料が残されている第2回水産博覧会において、菊寿堂義信翁が作り上げた本国錦(ほんごくにしき)が3等賞を受けた記録が残っています

水産博覧会は皇族の公務の始まりで明治維新やその後の政変に活躍した小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)が総裁を務めていました

本国錦(ほんごくにしき)が当時の価格で20円(現在の40万円)もしもペアでいたら(実際はいない)愛好家が当時の価格で50円(現在で100万円)はくだらないと口を揃えていったそうです

大阪らんちゅう(本国錦)

本国錦(ほんごくにしき)

「当時の大阪らんちゅうの品評会」

  • 錦楽会(きんらくかい)菊寿堂義信が中心
  • 錦盛会(きんせいかい)

錦楽会はプロの集団で錦盛会は金魚問屋と一般の方の会になります

錦楽会は調色ができるプロの会で調色という業(わざ)を弟子に伝えられ作りだされています

錦楽会では青木氏は目赤本六輪尾紅(めあかほんろくりんおべに)を作る名人で菊寿堂義信は鼻髭(はなひげ)を作る名人だったそうです

一般の方や金魚問屋(きんぎょどんや)ははいることができない会でした

会は菊寿堂義信が亡くなってから消滅しました

錦盛会は調色ではなく、天然の色彩を中心の魚になります

一般の方や金魚問屋中心だった錦盛会は調色する技術がないため、大阪らんちゅうの天然の色彩で楽しんだ会です

当時金魚問屋や金魚売りは大阪に300人いたそうです

この数字からみても江戸末期から明治にかけて、大阪らんちゅうなどの金魚を楽しむ方は非常に多かったと考えられます

金魚問屋や金魚売りの中には船場の旦那衆の金魚の世話をして、1年間飲み食いできるぐらいの生活費をもらっていたそうです

当時盛んに行われていた大阪らんちゅうの品評会では番付表には別格として菊寿堂義信翁の名前が入り、愛好家や弟子に尊敬の眼差しを向けられていたようです

菊寿堂義信翁は90才まで長生きしたそうですが、それ以降は大阪らんちゅうが衰退していきました

菊寿堂義信翁が理想とした大阪らんちゅうとは

骨太(ほねぶと)丸型(まるがた)癖なきさかながいいと言われたそうです

卵型ではあるが、太くて丸型の魚がいいということです

そのため飼育方法は菊寿堂義信翁は浅水飼育(水深15㎝)で大阪らんちゅうを飼育したそうです

浅水飼育は菊寿堂義信翁によってはじまっています

浅水飼育のメリットは

  • 浅水飼育で尾が長くなる
  • 水温の変化で色を上げる
  • 体の成長を伸ばすのではなく、太い魚を作る

又、調色(ちょうしょく)の技術は梅酢と鉄の粉を混ぜたものを利用していました

そして菊寿堂義信翁は長く生きれる魚そして楽しめる魚を好みとしました

現在の大阪らんちゅうは平均10才ですが、菊寿堂義信翁の時代は20才ぐらい生きていたそうです

もともとは大阪らんちゅうは短命で、東京のらんちゅうは長生きだったそうです

大阪らんちゅうはもともとは業者(大和郡山、金魚屋、金魚問屋)が主体で大阪らんちゅうを飼育販売していました

当時は大きさではなくて重さで販売していたために、早く大きくして早く販売するという形式でした

菊寿堂義信は顔を小型にして品の良さを中心にした

目先が長くて、胴も長いもの(長手ではなく中寸)に改良して長く飼育できる大阪らんちゅうにした

 

菊寿堂義信が亡くなって、旧来の形(丸型)の大阪らんちゅうを金魚問屋中心に求めた

 

結果的に大阪らんちゅうの衰退を招いたと考えられます

 

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参考文献

年代不明の新聞記事

金魚養草(きんぎょやしないぐさ)

 

純血種のおおさからんちゅう3

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